新撰組〜大和屋焼き討ち

文久三年八月十三日深夜、新撰組筆頭局長芹沢鴨は、隊士数十名を引き連れ、生糸問屋大和屋の土蔵に向かって大砲を撃ち放つ。
はたからみれば一見暴挙にも見える芹沢の行動ではありますが、果たして、「大和屋が気に入らなかった」それだけでしょうか?
「天誅」という名を掲げた過激派たちに脅された豪商大和屋が連中に献金をしていたともあり、それを知った芹沢鴨が暴徒に出す金があるならば、「新撰組に出すように」と直談判し、それを足げにされたとも言われてます。 確かに、自分たちは京の町を守っているのに、「なぜ」という気持ちがあったのかもしれません。

絹織物と言えば西陣。
西陣と言えば京都ですよね・・・ずっと時代はさかのぼりますが、京都の映画村があります太秦という地名は、かつてその地に秦氏という一族が絹をうずたかく積んだのがいわれとも伝えられております。それだけ昔より生糸の流通が盛んだった都だったのでしょう。
そして大和屋などの豪商が生糸を買い占めていました。いつの時代もやはりそういうシステムはあるものです。もしかして、芹沢鴨の大和屋焼き討ちは、少なからず豪商の陰で小さくなっていた庶民の思いのあらわれだったのかもしれません。
ただ、この事件が芹沢鴨の立場を一層悪くしたのは、紛れもない事実です。