新撰組粛清 其之弐「芹澤鴨暗殺」

文久三年(1863年)九月十八日、京都島原の揚屋、角谷徳右衛門の座敷にて新撰組幹部による会合と呼ばれる宴が催されます。
十八日の政変において「新撰組」という正式な隊名が授けられたということも兼ねての祝いという意味もあり、芸妓たちも交えて華やかな宴となったようです。 しかし、この時すでに会津藩より「芹沢鴨の処分」の密命が下っていました。芹沢鴨という豪傑は、新撰組創生期つまり壬生浪士組時代には絶対不可欠な人物だったといえます。彼の資金調達能力は非常に優れており、壬生浪士組を賄っていたのは紛れもなく芹沢鴨その人です。それがどのような手段であろうと金がなければ隊は存続できません。ましてこの頃は会津藩より給金などなく、すべて芹沢が調達していたといっても過言ではないのです。
新撰組のあの有名なダンダラの隊服の代金についても平野屋五兵衛という豪商に壬生浪士組に軍資金を出せと詰めより、その調達した金百両で呉服屋大丸に隊服の注文をしたといわれています。足が出た金額は当然のこと踏み倒したそうです。
烏合の集団である壬生浪士たちが揃いの隊服を着ることによって士気も高まり、自分たちの存在を京に広めることにもなるとの考えにより考案されたのがダンダラの羽織です。

次第に一つの隊としてまとまり、認められるようになる新撰組にとってこれまで好き勝手させていた芹沢の存在が重くなりはじめます。 会津藩より正式に仕事も与えられ今までのように芹沢の勝手な行動は自分たちの首を絞めかねない状態になるのです。そして度重なる芹沢鴨の乱暴にも会津藩が眉をひそめ始めたのです。
天然理心流試衛館一派と神道無念流一派芹沢らとは、もとより相容れられぬ思想の違いもありました。尊皇攘夷水戸派に強く繋がる芹澤一派という存在は、会津藩にとっても非常に疎まれる連中だったのです。
新撰組は使える・・・しかし水戸はいらぬ・・・です。そして近藤勇にとっても芹澤鴨は目の上の大きな瘤だったのです。
新撰組を一つに束ねるということから粛清は行われるのです。盛大に行われた宴を終え酉の刻(午後六時〜七時)頃、泥酔した芹沢鴨は籠に乗り壬生の屯所、八木邸に帰ります。
腹心である平山五郎は小栄(桔梗屋)という芸妓を平間重助は糸里(輪違屋)という女を連れて戻ります。八木邸に着いた芹沢と平山はすでに足腰が立たなくなるくらいの泥酔状態だったといわれ、玄関の奥の部屋に人の手で運ばれたと言われています。
また、屯所に戻ってからそれぞれの女達を交えて飲み直したともいわれ、土方歳三が芹沢らが寝入るのを見届けたともいわれています。芹沢鴨と平山五郎は同じ部屋で屏風を隔てて芹沢は愛妾のお梅と平山は連れ帰った芸妓の吉栄と床を共に寝入ります。平間重助は別室の玄関横の部屋にて芸妓の糸里と共に床に入ります。

そして子の刻(深夜十二時)頃、暗闇の中、数人の男達が乱入してくるのです。
一説によれば踏み込んだのが沖田総司、土方歳三、藤堂平助とも伝えられ、井上、山南も加わっていたとされています。 まず平山五郎を数名で突き殺し、首を切り落とし、抵抗しようとした芹沢鴨を蹴倒し、刀を抜こうとした腕を切り落とし、枕もとに立てかけていた屏風をのせ、そばにいたお梅ともども屏風の上より数名で滅多突きに刺し殺したとそうです。
別室で寝ていた平間重助は深酒をしていなかったことも幸いし隙をみて命からがら脱出に成功しました。この惨劇から助かったのが、平間重助と芸妓糸里、そして平山と共にいたお栄という芸妓が厠にいっていたために助かりました。お栄は厠より部屋にもどる途中に男に「このまま去れっ」と言われたとも伝えられています。この時、助かった平間の行方は伝わっておりません。
翌日、近藤勇は守護職に「不逞の輩が忍び込み、芹沢局長を殺害」と届けでます。そして九月十八日、芹沢鴨、平山五郎の葬儀が新撰組を挙げて盛大にそして厳かに執り行われました。
そしてここに近藤勇という只一人の局長のもと新撰組は束ねられるのです。
もう一人の芹沢の腹心、野口健司は同年、十二月八日に切腹させられたとも髪を結っている時に原田左之助に後から首を掻き切られたとも伝えられています。芹沢らを暗殺したときのメンバーは実際のところ確かな証拠はありません。後に八木家の子息からの話とか永倉新八の顛末記などにそれらしい名前は挙げられていますがこれとて確たる証拠はなく、おそらく試衛館のメンバーがしたのだろうと伝えられているのです。暗殺とは秘密裏に行われそして埋もれていくものです。決してその実態が表に出ることはありません。