新撰組〜大坂相撲力士乱闘事件

文久三年(1863年)六月三日夜、壬生浪士の名を語り、悪事を働く浪士の取締りを大阪町奉行から依頼された壬生浪士組は、芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、平山五郎、野口健司、永倉新八、原田左之助、斎藤一の十名が大阪に下ることとなります。
数名を捕縛し、近藤、井上の二名を残した芹沢以下八名が舟遊びの帰路蜆橋(しじみばし)の辺りで前方より来た相撲取りの一行と道をあけろ、あけないの口論となり、芹沢が力士を脇差しを抜き峰打ちで払いのけます(鉄扇で殴り飛ばしたとも言われてます)。
そして何事もなかったように登楼(遊郭で遊ぶこと)して酒宴の最中に二〜三十人の樫の八角棒を手にした力士たちが仕返しに乗り込んで来たのです。

しかし、強者の力士たちとはいえ、相手は一騎当千の剣豪たち、壬生浪士組の中でも凄腕の剣客たちです、脇差しのみで相手となり、力士たちの数名に重傷を負わせ追い払います。この時の傷がもとで熊川熊次郎という関取が死亡。ことの顛末を大阪町奉行所に届けます。相手の素性(壬生浪士組)を知った力士側が詫びたことでこの一件は解決します。しかしこの時、この事件を取り調べた西町奉行所筆頭与力、内山彦次郎と近藤勇の間にしこりが残ることとなるのです。
元治元年(1864年)五月二十日、内山彦次郎は新撰組によって暗殺されます。内山が新撰組の資金調達の内情を調べていたため口封じのため殺されたとも言われてます。