吉田松陰

幕末動乱の世に多くの維新志士たちを世に送り出した稀代の天才「吉田松陰」

 1830年、長門国萩松本村に杉百合之助の次男とし生まれる。幼名は虎之助。維新の生みの親である、吉田松陰です。
この幕末志士伝にて紹介する人物としてまずこの人をあげなくてはなりません。彼は幼少より才覚を表し、十一歳で藩主毛利敬親の御前で兵学を講義するほどの少年でした。
1853年、ペリー来航を機に彼の後の人生は大きく変わっていきます。
世界の情勢を知り、国家のために何をすべきか考えた彼は二度黒船密航を企てます。
しかしいずれも失敗に終わり、この時代まだ海外渡航は禁止されており、国禁を犯した罪人として野山の獄にて幽閉生活を送ることとなります。

翌年、免罪となり、故郷松本村で松下村塾を開きます。門下生として桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らといったそうそうたる面々が松下村塾には名を連ねます。
吉田松陰は当初、「天下国家のためとはいえ穏便な手段を選び志を実現すべきである」としていました。
この頃の志士たちは、暗殺的なテロ行為に走ることは稀でありました。
しかしそれは将軍家の跡継ぎ問題に端を発した紀伊藩南紀派と水戸藩一橋派の対立、そして南紀派の後押しにより大老職についた井伊直弼の勅許を得ぬまま調印した日米修好通商条約、これは幕府の方針である「開国」と朝廷の「鎖港」という異なった意見の中、孝明天皇の勅許を得られなかったという結果です。
そして十四代将軍には紀伊藩主徳川慶福が決まり、そのことに反発したものたちの大老井伊の容赦ない処分、そして天皇を無視した通商条約、尊皇攘夷派の志士たちは京の公卿たちと手を結びます。
それに危機感を感じた幕府側は老中間部詮勝(まなべあきかつ)に京で志士たちそして公卿までも徹底的に弾圧し、処罰していきます。安政の大獄のはじまりです。

そしてその知らせをうけた吉田松陰は、幕府への報復として門下生十七名と共に老中間部の暗殺、紀州藩家老の水野土佐守忠央(みずのとさのかみただなか)らの暗殺を企てます。
しかしそれが失敗に終わり、吉田松陰は安政五年(1858年)十二月、野山獄に再び幽閉されます。そして江戸に送られ、伝馬町の牢で『留魂録』という遺書を残し、安政六年十月二十七日、死罪に処せられます。

吉田松陰、享年三十。
松陰の死後、その意志を受け継いだ志士たちによる活動が激化していくのであります。そしてそんな尊攘派志士に対抗すべく新撰組が生まれたのです。

吉田松陰 辞世の句

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂