坂本龍馬

沈みゆく徳川幕府、迫り来る異国の高波、ニッポン国を守るため、
薩長同盟という不可能を可能にしたサムライ「坂本龍馬」

坂本龍馬 歴史人物伝

 天保六年(1835年)、坂本龍馬は、土佐の郷士坂本八平の次男として生を受ける。幼少の頃母親を亡くし、姉乙女が龍馬を育てます。経済的にも裕福な中で育った龍馬は、教育熱心な姉により学問、剣術を叩きこまれます。
龍馬は学問よりもまず剣術によりその才を開花させることとなります。乙女の勧めで入門した小栗流日根野道場にて弱冠十九歳の若さで目録を得るのです。さらに自らの剣を磨くべく坂本龍馬は、故郷土佐を離れ、遊学のため江戸に行き、そして神田お玉ヶ池、北辰一刀流玄武館千葉周作の弟である京橋桶町に道場を構える千葉定吉に弟子入りし、その剣才に更なる磨きをかけるのです。
北辰一刀流玄武館といえば、幕末において江戸最大の流派でありますが、それと共に玄武館は、時代の流れに敏感な者たちの集まり、つまり時代の先駆者を育成する道場でもありました。坂本龍馬もまた、玄武館で、剣術と共に日本の先を読むすべを得たのかも知れません。
そして坂本龍馬は、嘉永六年(1853年)六月、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊を自らの眼で見、その軍事力の凄さ、異国の強大な力を目の当たりにし、そして芽生えていた攘夷という思想に、日本の大改革という大望にその身を投じてゆくこととなりました。
坂本龍馬がまず、「知」を求めた人物が、幕末随一の開国主義者であった松代藩士佐久間象山です。 敵艦隊の大砲、砲弾の威力を前に決して戦争になってはならない、今は外国の技術を学びそして先に備えるべきと開国を主張したのです。その佐久間象山の考えに坂本龍馬もまた賛同し、象山のもとで洋砲術を学びます。つまり敵(異国)の得意技を使って敵を破る、「夷の術を以て夷を防ぐ」です。

安政五年(1858年)、坂本龍馬は江戸を出て故郷土佐に戻ります。彼は蘭学に精通している河田小龍の元で西洋の知識を学び、文久元年(1861年)親戚筋にあたり過激な勤王思想をもつ武市瑞山(武市半平太)の土佐勤王党に加わります。しかし、龍馬は再び故郷土佐を出る決意をするのです。彼の脱藩行為は、二人の姉に害が及ぶこととなるのです。
京都に上った坂本龍馬は一時、京都長州藩邸に身を置きますが、暫くして江戸に舞い戻り、北辰一刀流を学んだ千葉道場の門を再び叩きます。もともと北辰一刀流玄武館と長州藩とは強い繋がりがありますので、龍馬が長州藩邸と千葉道場とを行き来しても当然かもしれません。
長州藩は玄武館の後ろ盾(スポンサー)です。ちなみに新撰組近藤勇、土方歳三、沖田総司の流派天然理心流試衛館の後ろ盾は多摩の豪農でした。
江戸で坂本龍馬は、千葉定吉の長男で、過激な攘夷思想家であった千葉重太郎と共に幕臣勝海舟を殺害しようとしますが、開国主義者であり、先見の明に長けた勝海舟の開国論に共鳴し、そして彼の弟子となるのです。
勝海舟もまた坂本龍馬に熱心に貿易、開国について教えたそうです。
幕府軍艦奉行並であった勝海舟は、坂本龍馬に幕府の軍艦訓練所にまで連れていく程に龍馬を見込んでいたそうです。そして勝に従って京都に上った龍馬は、神戸軍艦操練所を設立するために資金調達、人材集めに奔走します。そして彼の元に集まったのは、同郷である土佐出身の若者たちでした。

そして坂本龍馬は、操練所の塾頭となり彼らの指導にあたります。しかし、この神戸軍艦操練所は元治元年池田屋事変に塾生であった望月亀弥太が倒幕浪士の一人として含まれていたとし、閉鎖されるのです。
文久三年(1863年)の「八月十八日の政変」により時勢が幕府にあると踏んだ土佐藩主山内容堂は、藩内に勢力を拡げていた過激尊王攘夷派、土佐勤王党を排除、弾圧し始めます。そして坂本龍馬も土佐へ戻る命令が下りますが、彼はその命令には従わずに勝海舟と行動をともにし、元治元年(1864年)、勝は、龍馬を長崎に連れて行き、そして肥後藩の横井小楠、薩摩の西郷隆盛に引き合わせます。
土佐藩より追われる身となった坂本龍馬は、薩摩藩に匿われることとなります。龍馬が塾頭を務めていた操練所は閉鎖されますが、彼は薩摩藩の後ろ盾を得て、長崎にて海援隊の前身となる海運貿易業、西洋から軍艦武器を輸入するための組織、亀山社中を創設するのです。閉鎖された神戸操練所塾生たちも多く加わっていたとのことです。
元治元年に起こった「禁門の変」により対立を深くしていた薩摩藩と長州藩、この二大勢力の藩を結び付け、日本改革の狼煙を上げようと坂本龍馬は薩摩、長州の両藩の間を奔走します。

幕末志士伝〜坂本龍馬〜は随時追記していきます