061|新撰組活劇「いつか何処かで〜沖田総司物語」|小説「橋」

先ほど迄、恐怖を掻立てる濁流の轟音も、今、平間の耳には届いてなかった。
さもあらん、今、自分の眼の前にいるものこそ、真実の恐怖なのである。
今にもその刃を抜き放たんとするものが、人の形をし、血に塗れた狼がそこにいるのである。

・・・だが殺らねば、殺られる・・・

平間重助にとって生き延びるすべは、沖田総司を斬り、そしてこの橋を渡り、逃げる道しか残されていない。

「斬るっ」平間は柄に力を込めた。
そして、正眼から大きく振りかぶり、沖田の天中めがけて真っ向に斬り下げた。
が、その刃を総司は、三寸で交わしながら、鞘から刃を抜き放ち平間の胴を狙った。
平間の脇腹の肉が斬れ、血が飛び散った。だが、総司が自らの手応えに眉をひそめた。 なぜなら、平間重助の受けた傷は、致命傷にはいたらぬモノであった。

・・・刃先が鈍くなっている・・・
沖田総司は、先刻の芹沢鴨との幾度となく合せた、激しい切り結びにその原因を探りあてた。
平間重助は、脇に受けた傷も気にやることなく、踵を返し橋を駆け上る。

沖田は、弾みを付けるように膝を屈め、そして三尺飛び上がったと同時に橋の欄干に着地する。
そして、その欄干を弾みとし、さらにもう五尺飛び舞い上がり、そして夜空を翔た。

橋を渡りきろうとする平間の頭を越え、その眼前に折敷きの体勢で着地し、その喉元めがけて刀を構える。

「たっ、助けてくれっつ」血を絞り出すかのように平間が叫ぶ。
「故郷に年老いた母がいるっ、俺が死んだらっつ
頼むっつ
何も孝行をしておらんのだ、せめて顔を見せてやりたいっつ
頼むっつ
見逃してくれっ
新撰組のことは、何もしゃべらんっつ」

平間重助の郷里の母への想いは、真実なのであろう。
そして親への情を訴え、人の子として、沖田総司もまたその情を持つであろうと・・・ その心に動かされてくれはしないかと
助かる道を必死に模索したのである。

だが、それは総司にとって余りにも無意味であった。
父は自分がこの世に生を受ける前に、そして、母も顔を憶える前に死んだ。
母の温もりすら感じたことがなかった。
総司にとって、母親の有り難み、親の尊さなど身を以て感じたことなどなかったのである。
自分にとって母親代わりは、姉みつであった。
そして、その姉もまた子を持ち、母となり、そしてそれまで自分が一身に受けていたであろう肉親としての愛情は、母性となり彼女の子らに注がれている。
もちろん今でも自分も愛おしんでくれる、いつも自分の身を案じてくれている。
だが、それでも母というものは・・・姉の其れとは、違うのであろう。

沖田総司が理解できるのはそれだけであった。

「・・・母上・・・」沖田総司の口からその言葉が漏れた。

平間はその言葉に、沖田の心が動いたと、そして一条の情けに救いを求めようとした。
が、沖田の言葉は情けから漏れたモノではなかった。 脳裏にその顔を浮かべることも叶わぬ母が・・・どういう存在かもわからぬ・・・
その想いが口から漏れたに過ぎなかった。
只、総司は確かに存在する新撰組のために、自分に課せられた成すべきことしか考えてはいなかった。