沖田総司

史実として伝えられる沖田総司の生涯、
幕末動乱の京都で新撰組一番隊を率いた其の人生を年表を交え辿る「沖田総司人物伝」

沖田総司歴史人物伝

 天保十三年(1842年)または、弘化元年(1844)という説があります。奥州白河藩阿部豊後守下屋敷で沖田勝次郎の長男として生まれる。 その夜は暴風雨だったといわれてます。彼の後の人生を暗示するかのような逸話です。幼名は宗次郎、幼くして父を失い白河藩とも縁の切れた沖田家は、十一歳年上の姉みつが婿をとり家を継ぐこととなります。九歳になった宗次郎は、内弟子といえば聞こえがいいがていのいい丁稚奉公のような扱いで牛込の天然理心流道場に入ります。しかし十二歳になった宗次郎は白河藩の指南役に勝つほどの剣士としての天才ぶりを発揮しはじめます。そして十八歳で天然理心流免許皆伝となり、試衛館の師範代として道場主の近藤勇に代わり出稽古に行っていたと言われてます。 しかしその稽古は凄まじいもので近藤よりも恐れられていたと言われてます。宗次郎は、生まれつきの剣の天才です。天才という人はおうおうにして人に教えるのが苦手です。なぜそこで止まるのか、なぜそこで打ち込まないのか・・・彼はそんな風にまわりに怒鳴っていたとも言われています。彼には相手の動きが鈍く見えて仕方なかったようです。

宗次郎の得意技と言われているのが「無明剣」と呼ばれる三段突きです。ただこれは彼が得意とした技であり、それゆえに天然理心流において突き技が主体と思われがちですが理心流においては、そうではありません。あくまでも沖田総司が得意とした技です。激しい気合いを発すると同時に一度突き、手応えなくとも刀を手元に引き、また瞬時に突く、そして引き突く、といった三段の突きの動作を一つの突きの動作に思えるほどの早業で繰りだしたと伝わっております。そんな人物に教わる者たちにとってはたまったものではなかったようです。防具をつけても宗次郎に突かれるとケガをするといった稽古のようだったと伝えられてます。手加減というものが苦手だったのかもしれません。まさしく実戦のために存在するような剣士だったのでしょう。

十八歳の時、宗次郎は、はしかにかかり重病となります。そんな彼を心配して近藤勇の盟友ともいえる小島鹿之助は、「必ず世に知れる剣客となる人物なので、心配です」と記しています。やはりそれほどの天才剣士だったのでしょう。 剣術から離れたところでは彼は、よく冗談を言い、子供達を相手に無邪気に遊んでいたと言われてます。その二面性が彼の魅力となっているのかもしれません。そんな宗次郎を近藤は非常にかわいがっており、宗次郎にとっても早くに亡くした父の代わりだったのかもしれません。
そして文久三年(1863年)に浪士隊に参加することを決めた父とも兄とも慕う近藤、土方とともに彼もまた浪士隊に加わるのです。名も沖田総司と改め、道場という狭い中で抑え込まれていた天才剣士が、京の都で解き放たれることとなるのです。

沖田総司 年表一

沖田総司 年表一

沖田総司 年表二

沖田総司 年表二

 文久三年(1863年)二月八日、江戸・板橋を京に向けて試衛館一門が入隊した「浪士組」が発ちます。中山道で木曽路を越え、近江で東海道に合流し、彼らはひたすら歩き続けます。 沖田総司と改名し、浪士組の入隊名簿に沖田は、阿部播磨守元家来、陸奥国白河出身、年齢二十二歳と記述しています。もちろんこれは自己申告で、この記述を参考に遡り彼の出生年を天保十三年という説が有力ですが、すでに父親の代で白河藩とは縁切れた彼が、上記の元家来というように申告していることも踏まえて事実、出生年も確かとはいえません。彼に限らずこのような時は、あえて都合のよいように申告したと思われます。この名簿には沖田林太郎、つまり沖田総司の義理の兄(姉みつの夫)の名前も記載されてます。ただ彼は、途中で抜けました。

浪士組は、東海道五十三次の終点である三条大橋を渡り京に入ります。そして住人士と呼ばれていた壬生の郷士の屋敷、八木源之丞、前川荘司宅などを宿舎としてあてがわれます。試衛館一門と芹沢一派は、八木邸を宿舎とすることとなります。しかし、京についたその日に発表された清河八郎の「帰東命令」に反発し、試衛館一門、芹沢一派は京に残ります。 そしてその意気込みを買われ浪士取締役、佐々木只三郎を通じて三月十二日、正式に会津藩お預かりとなります。「壬生浪士組」、のちの「新撰組」です。まず、彼らは、浪士組の中で統制という名の粛清をします。殿内派の暗殺です。リーダーであった殿内義雄を斬ったのは、近藤勇に連れられた沖田総司とも言われてます。この粛清については、「新撰組粛清其の壱」に記述してます。

沖田総司 年表三

沖田総司 年表三

沖田総司 年表四

沖田総司 年表四

 文久三年六月、大坂町奉行所よりの要請で、芹沢鴨、近藤勇に従い、沖田総司は大坂に下ります。しかし芹沢が力士と諍いを起した事による乱闘騒ぎに巻き込まれます。力士らとの騒動は、一旦収まりますが、のちにその事件に関わった大坂奉行所筆頭与力の暗殺に沖田総司は手を染めることとなります。のちほど詳しく記述いたします。
六月〜七月になると壬生浪士組の人数も増え、第一次隊編成が行われます。この時、沖田総司は副長助勤筆頭となります。この頃の沖田総司は、屯所内に設けられた道場「久武館」にて隊士らを厳しく鍛えながら、一方では、壬生寺境内などでよく子供らと無邪気に遊んでいたと言われています。
文久三年八月十八日、壬生浪士組全員出動の命令が会津より下されます。いわゆる「八月十八日の政変」です。そしてこの時、壬生浪士組は正式に「新撰組」という名を与えられます。そして、これを機に新撰組の徹底した市中取締りが始まるのです。そして、その先陣をとるのが助勤筆頭の沖田総司です。

沖田総司 年表五

沖田総司 年表五

九月八日頃とも言われていますが、新撰組局長でもある新見錦が私用に金策したとし、遊興中であった祇園「山緒」の座敷で切腹させられます。この時、土方歳三、沖田総司ら十数名で詰め寄り切腹させたとされていますが、事実は定かではありません。そして、新見錦という水戸以来の右腕を失った筆頭局長である芹澤鴨を近藤一派は追いつめていきます。
同月十六日の深夜、島原「角屋」での宴席を終え屯所である八木邸に戻った芹澤鴨、その愛妾お梅、平山五郎らを沖田総司を含む数名で斬殺したとされています。詳しくは■芹沢鴨暗殺事件■ に記述しております。

沖田総司 年表六

沖田総司 年表六

沖田総司人物伝、年表は随時追加追記していきます