沖田総司逸話

名もなき母

 沖田総司の生まれた年月日は、新撰組人物伝〜沖田総司〜に記載している通りはっきりとした日付はわかっていません。そしてまた、彼の母親が何という名前であったかも定かではないのです。沖田総司の父親は、沖田勝次郎となっていますが、沖田家の菩提寺である専称寺の過去帳には、沖田勝次郎という人物の妻の名は記されていないとのことです。なぜ母親の名がないのか・・・幼少とはいえ長男であった彼がなぜ試衛館に内弟子として入るという・・・つまり家を出されるということになったのか・・・ 彼の生い立ちには謎がいくつも隠れているようです。

十有二之試合

 十二歳になった頃、奥州白河藩剣術指南役と剣を交えることとなり、その試合に沖田宗次郎は勝ったと伝えられています。白河藩といえば彼の父である沖田勝次郎が仕えていた藩であり、おそらく藩士の子弟として武〜剣術を披露する機会を与えられたのかもしれません。もし、彼が本当に勝ったとしたならば、現在まで伝えられる沖田総司の剣才は本物だったと言えるでしょう。

達磨と仕官

 沖田総司は、十九歳で天然理心流の免許皆伝を授かる。そしてこの頃、仕官の話があったとされています。とある藩の剣術指南役、まさに沖田総司にとってこれ以上ない名誉なことと言えるでしょう。しかし彼は、その仕官を辞退したということです。その時、沖田はなぜか「達磨」絵を差し出して断ったと言います。なぜ断ったのか・・・「達磨」の絵に秘めた彼の想いとは・・・達磨は、転んでも起きあがり、また転んでも起きあがる、七転八起、決して挫けぬ精神の証とされています。沖田総司は仕官よりも共に生きていく仲間を選んだのかもしれません。

沖田総司と麻疹

 文久二年夏、この年江戸に麻疹とコレラが流行し、多数の死者がでます。麻疹を江戸にもたらしたのは、小石川伝通院の二人の修行僧とされています。二〜三十年周期で流行したとされる麻疹に精通した医者も少なく手の施しようもなかったと伝えられています。そしてその麻疹に沖田総司も感染します。十九歳という年齢で感染したこともあり彼の症状は重かったようです。この時の沖田総司を心配して試衛館の後援者でもある小島鹿之助が「此人剣術者、晩年必名人ニ可至人也、故ニ我等深心配致ス」と自らの日記に綴ったそうです。

沖田総司逸話は随時追記していきます