佐々木只三郎

京都見廻組与頭、幕臣として忠義を尽くし、武士道を貫き、
そしてサムライとして散った剣豪佐々木只三郎

 天保四年(1833年)に会津に生まれる。代々会津藩士として仕えた家柄であり、実兄は会津藩重臣手代木勝任(てしろきかつとう)。
会津藩士の子として幼い頃より藩伝来の「会津五流」の一派、神道精武流を学ぶ。 剣術の才に恵まれた佐々木只三郎は、三男ということもあり幕臣であった遠縁の家に養子に入ります。 そして講武所剣術教授方となります。
講武所とは安政二年(1855年)に幕府がつくった武術を学ぶための訓練所です。
一説によると近藤勇もこの講武所の剣術師範を申し込んでいたが身分のために却下されたとも言われています。
代々武士としての家柄に育った佐々木只三郎と郷士であった百姓出身の近藤勇、同じ剣術の道を行く者たちが文久三年(1863年)、幕府が徴募した浪士組で出会う事となるのです。

浪士組の中では、佐々木只三郎は浪士取締並出役という役職にあり、近藤勇は大勢いる浪士隊の中の一隊士でした。 しかし幕府を欺き浪士組を倒幕活動に利用しようと暗躍していた清河八郎の暗殺を幕臣随一の剣豪とも呼ばれた佐々木只三郎に命じます。
文久三年四月十三日、松山藩の藩邸より帰る清川八郎を麻布一ノ橋〜赤羽橋〜で待ち伏せます。通りかかった清河八郎に声をかけ、清河が笠をとって挨拶しようとした瞬間、背後から数人が斬りかかり、正面より佐々木只三郎が清河の首筋を断ち割ったと伝えられています。
最初は近藤らに清河の暗殺命令がくだったといわれていますが、実際成功したのは佐々木只三郎らでした。 壬生浪士組と会津藩との仲介をしたのも佐々木だったといわれています。 彼は自分の中にある幕府への忠誠心を近藤勇の中にみたのかもしれません。

これより一年後、元治元年四月、幕府は京都の尊攘派浪士の取締りを一層強化するために幕臣の子息(次男、三男)などで構成する検察隊、京都見廻組をつくります。 当初の幕府の希望人数にみたなかったため京都所司代の同心などが加えられます。 組頭は備中浅尾藩主、蒔田広孝と交代寄合、松平康正の二人、そして与頭として佐々木只三郎、間宮孫四郎、小林弥兵衛らが就任します。
京都という同じ地で新撰組と京都見廻組は尊攘派志士たちに畏怖される存在となるのです。 ただ、新撰組と京都見廻組との違いはかたや身分のない剣客集団、もう一方は武士という身分をもつ剣客集団という差でしょうか。
この後、佐々木只三郎は、幕府にとって仇となる坂本龍馬の暗殺に執念を燃やしたともいわれ、一説によれば寺田屋で中岡慎太郎とともに坂本龍馬を斬ったのは佐々木とも言われています。
佐々木は武士としての誇りをもち、慶応四年(1868年)一月、鳥羽伏見の戦いに参加し、敗退するも会津の武士として戦い、最期は銃弾を受け倒れます。 享年三十五。

※会津五流とは「神道精武流」、「太子伝安光流」、「真天流」、「太子流」、「溝口派一刀流」