勝麟太郎〜海舟と直心影流

幕末に其の名を高めた鹿島神伝直心影流、其の門下であり幕臣として 単身敵陣に乗込み、
江戸城を無血開城へと導いた勝海舟

 鹿島神宮の神官であった松本備前守を開祖とする鹿島神陰流、そして時代を下り鹿島神伝直心影流と名を改め宗家となった七代目山田平左衛門光徳の三男であり、其の遺志を受け継ぎ、激しい打ち合い稽古試合を行うための防具を取り入れた八代目宗家長沼四郎左衛門国郷(1688年〜1767年)により直心影流は其の名を広め多くの門人を得ます。
国郷から五代目の継承者、十三代宗家であり、幕府講武所剣術師範、頭取を務めた男谷精一郎信友(1798年〜1864年)と父勝小吉が縁戚筋であった縁で男谷邸(本所亀沢町)にて勝麟太郎は生まれます。
父小吉は旗本とはいえ四十石程の家禄で裕福には程遠い生活であったようです。しかし小吉は武に長けた胆勇無双な人物と伝えられています。そしてその父親の気性を勝麟太郎は受け継ぎます。

勝麟太郎は、十六の歳に男谷精一郎の弟子、男谷門下の中でも天才と謳われた島田虎之助硯山(1814年〜1852年)の道場に入門します。
そして彼の元で直心影流剣術を学ぶのです。師である島田虎之助は、剣術だけでなく、勝に参禅を薦めます。荒々しい稽古として有名であった島田道場でありましたが、この魂を鍛える、そして自己を見つめ直す「禅」という精神鍛錬にも重きを置いていたのかもしれません。
そして二十一の歳で彼は直心影流免許皆伝となり、次に彼が進んだのは蘭学への道でした。其処でも彼は卓越した才を発揮し、異例の出世、政治への表舞台に立つ事となります。まさに直心影流での鍛錬こそが幕末の英傑、勝海舟を世に送り出したのかもしれません。そして直心影流は後に大学を中心として剣道を広めることに貢献するのです。