山田浅右衛門

 幕末時代、新撰組という組織は「切腹」という武士の最期の身の処し方を何処か謝った捉え方をしていたような気がしてなりません。
当方、このような新撰組サイトをさせて頂いておりますが、彼ら「新撰組」には如何しても理解できぬ理がございます。それは、「切腹」への執着です。彼らは、武士に憧れ、偏心的な武士道を作り上げてしまったのではないでしょうか。
確かに新撰組の中には代々侍の家に生まれた者たちもいましたが、頭である近藤勇、土方歳三は武士ではありません。こればかりは、付け焼き刃で武士の格好をしても身には付かないのです。だからこそ、彼らは執着したのかもしれません、武士の最期の身の処し方である「切腹」に・・・そして、その首を斬り落とす、介錯人という役割りを隊士たちにさせていたのです。余程鍛錬をつまなければ、苦しませずに一気に首を斬り落とす技は身に付くものではありません。
彼らと同じ時代を生き、武士の家に育ち、そして自らの意志とは関わりない道を歩まねばならなかった人物がおります。「罪人の首を斬り落とす」事を代々の家業としてきた家に生を受けた「首斬り浅右衛」と呼ばれた人物、山田浅右衛門吉亮、其の人です。彼は十二歳の時には、父親、七世山田浅右衛門吉利に従って刑場にすでに赴いていたと言われています。

明治十四年に斬首刑が廃止されるまで、山田浅右衛門が斬り落とした首の数は三百とも言われています。罪人とはいえ、生きた人間の首を斬り落とすことを生業とした家に生を受けたのを定めと思い只管、勤めたのか、それとも・・・
吉亮は、後年このように述べておられます。「心中にて涅槃経を唱えておりました」と。
そして彼は、刑場へ向わねばならぬ日、その日斬り落とさねばならぬ人の数だけの蝋燭を自宅の仏壇に灯してから赴いたそうです。
当方、新撰組の「切腹」について史実、そして創作を描いておりますが、そんな時どうしてもこの人物「山田浅右衛門吉亮」のことが浮かんでくるのです。 「新撰組隊内での切腹介錯」と「家業である罪人の斬首」・・・違うと言われればそれまでですが・・・
徳川幕府という太陽、二百猶予年燦々と日本国を照らし続けた其の太陽が沈みゆく黄昏の中、新撰組は生まれ、そして僅かに残る光に其の姿を輝かせ、そして徳川という太陽とともに消えました。
幕末動乱の時代に何が善で何が悪かと問う事は・・・難しいことでございます。