新撰組剣術 天然理心流

幕末動乱の京都で倒幕志士たちに畏怖された幕末最強の剣客集団「新撰組」
そして近藤勇、土方歳三、沖田総司らの剣術「天然理心流」

 幕末の時代、過激な尊攘浪士たちからも恐れられた剣技です。極位は「千変万化、臨機応変之位」つまり「技に囚われることなく、何が何でも勝て」です。道場の型にはまった剣術というより、まさに真剣で斬り合うための剣技です。天然理心流には、剣術のほかに柔術、棒術、合気術なども組み込まれていました。たとえ刀がなくとも戦え、ということでしょう。

天然理心流を生み出したのが、近藤内蔵之助長祐という人物です。彼は流派を広める拠点として試衛館があったことでも有名な武州多摩地方を選びました。それはこの地が元来、将軍家への忠誠心が強い土地であり、郷士と称した人々が多く住んでいました。
彼らは有事の時は武士として戦うといった強い意識を常に持っていたこともあり、実戦向きの理心流は広まりました。四代目道場主の近藤勇、土方歳三もそのような立場でした。沖田総司は父親の代まで武士でしたが、立場としては彼らと同じようなものでした。そんな武士への強い想いが彼らの剣術の技を高めたのかもしれません。
稽古で使う木刀は握りが太く重さも普通の木刀の倍はあったとも言われています。そのような木刀を使い日々鍛錬することもまた天然理心流が実戦のための剣術だったといえるのでしょう。
天然理心流を継ぐ者は、弟子の中から選ばれました。所謂、世襲制ではなく指名制だったのです。そのことも天然理心流の強さの現れだったのではないでしょうか。

〜天然理心流(創始者〜四代目宗家)系譜〜

近藤内蔵之助裕
天然理心流流祖

出生年は不明。遠江の出身。
文化四年(1807年)十月十六日没
天真正伝鹿島神道流を学び、諸国を巡り、武者修行の末 晩年に天然理心流を生みだした。
江戸の薬研掘に道場を構える
指導は出稽古と称するそれぞれの村に二〜三日滞在し 指導するという形をとる
天然理心流は剣術を主体とした江戸三大流派(道場)、 北辰一刀流(玄武館)、
鏡新明智流(士学館)、 神道無念流(練兵館)と違い
剣術はもとより柔術、棍棒術、合気術(気合術)を 組み入れていた
指南免許「決心(おしえ)」には、
天然理心流極位(奥義)
「千変万化、臨機応変之位」とある
前(腕前)、修行年数に応じて免許を出す。
天然理心流免許には
「切紙」 「目録」 「中極位目録」 「免許」 「印可」 「指南免許」の六段階とされた

近藤三助方昌
天然理心流二代目宗家

安永三年(1774年)、多摩戸吹村に生まれる
文政二年(1819年)、三代目を告げぬまま急死する
以下七名の高弟により天然理心流は分裂する
井滝伊勢五郎、宮岡三八、増田蔵六、島崎周助邦武、
桑原永助、漆原権左衛門、松崎正作

近藤周助邦武
天然理心流三代目宗家

寛政四年(1792年)、多摩郡小山村に生まれる
二代目近藤三助の死後、三派に分裂した天然理心流のなか
文政十三年(1830年)、島崎周助が正式に近藤周助と 名を改め、
天然理心流三代目宗家となる
天保十年(1839年)、江戸市ヶ谷柳町に試衛館道場を構える

近藤勇昌宣
天然理心流四代目宗家

天然理心流四代目宗家である近藤勇については
■新撰組局長 近藤勇■

天然理心流〜平晴眼(平星眼)の構え

剣道の中段の構えです。 他の流派では「正眼」、「青眼」と書かれます。 攻防一体、敵の刀を躱しながら瞬時に敵の喉元を狙いにいく 天然理心流独自の「平正眼」の構えは、 真正面に構えるのではなく、半身に構え、 刀身を傾斜させるそうです。 他の流派もそれぞれの正眼の構えをとっています。 天然理心流では敵の構えによって切っ先の向きを変えます。 沖田総司の平正眼の構えは、剣先を少し下げ、 前のめりの構えをしていたと言われています。 近藤勇は、どちらかというと腹を前に出した構えだった と言われています。

天然理心流戦法〜山攻撃破剣

一人の敵を数名で追い込み、まず一人が敵に斬りかかり、 あとの者たちが敵の背後に回り込み、 一人の敵を四方八方より斬るという戦法です。
これならまず相手を逃すことはありません。 この幕末に「や〜や〜我こそは」などといった戦い方など 無用なものだったのです。 卑怯でなく、新撰組は敵を決して逃してはならない、 その目的で会津に認められた剣客集団だったからです。
この天然理心流戦法山攻撃破剣は、まさに新撰組のための戦法です。